
おなかに「ゆ」「め」をもったちゃーちゃんのお家へようこそ。
愛しい人を亡くして623日。
コロナ渦で家の中。
今できることを探していたら、
思いで辿ることだった。
ちゃーちゃんと2人だけの毎日。
noteに思い出書いて泣いてました。

猫から猫に新型コロナウィルスが感染するそうだ。
ニャンコのためにも私が感染しないことだ。
我が家には野良ちゃんも家ニャンコも良く来る。
この家を建てた頃にも来た。
その頃は、周り中が雑木林だったので、
「新しい住人が来たぞ。餌くれるかな?」
って感じで訪れたのだろう。
大の猫好きな母は、「おいで!」と餌付けをしたが野良猫なので、しっかり射程距離を保って近寄らなかった。
そんな母を見て、厚洋さんが教え子さんからもらって来たのが、
初代チャーちゃん↑。
この初代チャーちゃんが一番長生きして、母を看取ってくれた。9月5日、私が勤務から帰って来た時には、もう母は亡くなっていた。
側にチャーちゃんがじっとしていた。
そして、母の後を追うように逝った。
2004の5月だった。
その後、学校で子どもが拾って来たのをもらって来た「ロシアンブルーのチャーちゃん」。
そのこは、去勢もせず外にも出て行ったので、気が強く我が家の前でよく喧嘩をしていた。
止めに入った厚洋さんが大怪我をしたのもそのニャンコの時だ。
出血の酷さに「もう、駄目だ!」
と床に倒れ込んだ厚洋さんを見て「死んでしまう」と思ったほどだった。
その後、二代目は家出をしたまま帰らなかった。綺麗な猫だったので誰かに拾われたかもしれない。(交通事故に遭った様子はなかった)
その後2年近くニャンコのいない日々だったが、2人とも忙しく「猫が飼いたい」と言えなかった気がする。
家に人が居ないと野良ちゃんも来なかった。来ていても会えなかったのかもしれない。
三代目のチャーちゃんは、厚洋さんが退職してから我が家に来た。
真愛の教え子から、「子猫が生まれたのでもらって!」
と頼まれた。
小さいうちにもらって厚洋さんの暇潰しに育ててもらおうと考えて、目が開いてすぐもらった。
ミルクを3時間おきにあげ、おしっこもうんちも親のようにテッシュで促してあげたのは、厚洋さんだった。
「親バカ」って言う言葉があるが、まさにそれだった。
どこの猫よりチャーちゃんが一番賢いと思っていた。
チャーちゃんもそれに応えるように
鍵がかかってなければ色々な戸を開けた。
立ってドアノブを下ろして開けた時には、「賢い」と思った。
前のニャンコが去勢していなかったので家出をしたと思った厚洋さんは「可哀だ。男なのに?」と言いながらも手術をさせた。
真愛のお仕事の邪魔もたくさんしてくれた。
厚洋さんは、比較的冷静な人なのに、3.11の時は、「チャーちゃんを抱いて裸足で逃げた。」と言って笑った。
その頃から外に出るのを許すようになった。
何かがあったら「一人で生きていかれるように」と思ったからだ。
しかし、その年の夏。
外に出る事を覚えたチャーちゃんは、交通事故に遭った。
厚洋さんは、チャーちゃんの亡骸を抱きしめ泣いた。
そして、
「親が死んでも泣かなかったのに、
涙が止まらない。」と泣いた。
そんな彼に、
「私が死んだら泣く?」って聞いたのを覚えている。
彼が何と答えたかは、(拙著「白い花にそえて」文芸社版)でお読みください。
チャーちゃんが亡くなって、厚洋さんがペットロスになりそうだった。
見ていられないと思った丁度その日の新聞にチラシが入った。
「JOYでペット祭り」
厚洋さんには内緒で見に行った。
沢山のゲージの中に可愛いニャンコがいっぱい。
品定めをしていると真愛の好きな可愛いニャンコがいた。
しかし、雌猫だった。
今までのニャンコ全てが雄だ。「赤ちゃんを産んで捨てるのは嫌だったからだ。」
でも、可愛かった触ったら離せなくなると思いながら見ていると、
後ろから、
「可愛いな。」
と声をかけられた。
厚洋さんだった。
「うん。でも雌なんだよね。」
と言いながら抱こうとするとチビニャンコは
厚洋さんの胸に飛びついた。
ー決まりだー
チビニャンコは、四代目チャーちゃんになった。
後で彼が言うには、「お前がペットロスにならないか心配だったので、可愛いのがいたら買おうかと思った。」らしい。
結果的に真愛が選び、真愛が買った猫なので
チャーちゃんが粗相をすると
「お前の猫だろう?捨てるぞー」
と言われた。
可愛がるのは真愛より彼の方が多かった。
私は「厚洋さんのペット」だと思っていた。
語れない程のチャーちゃんとの思い出を作って厚洋さんは逝ってしまった。
入院して、会えなくなり、毎日「チャーちゃんはどうしてる?」と尋ねた厚洋さんだったし、
彼のベットの横には、チャーと真愛の写真を貼った。
1日だけ帰って来た夜には、2人と1匹で一緒に寝た。
四代目チャーちゃんも、初代チャーちゃんのよう祭壇の前から離れなかった。
しかし、後追いはしなかった。
厚洋さんが真愛を心配して連れていかなかったのだと思う。
毎朝、真愛を起こし「ごあん」と言う。
真愛が泣いていればちゃんと涙を拭いてくれる。
チャーちゃんがいなければ生き直す事も出来なかったかもしれない。
コロナ自粛で太って来た真愛に向かって
「お母んも太って来たよ!」
と、自分のお腹のタプタプを棚に上げて言う。
あなたに可愛い家族(ペット)がいたならば、是非、思い出話を記録しておいて下さい。
あなたにだけの物語があります。
そして、彼等にどんなに助けられていたか、
どんなに幸せな時間をもらっていたか気づき(すでに気づいているかな)
感謝のムギュをしたくなりますから…。

緊急事態宣言・外出自粛が5月末まで続いた。
明日は、6月1日。
外出はしても良いだろうが、3密になってはいけない。
消息したわけではないので、山ほどの不安が残る。
また、厚洋さんに話しかけて、チャーちゃんを抱っこして家の中にいるのかもしれない。
家での時間が多かったので、色々な片付けもした。
見つけた!格好いい厚洋さん?
写真は撮ってくれるが撮られることが好きではなかった厚洋さんの写真が見つかった。
「ねぇ。ねぇ。触って。撫でて見て!さらさらでショ?」って真愛に言われ、
無理矢理触っていた厚洋さんの横顔…?
今月のトップの写真も発見。
亡くなる年の6月頃の写真だ。
チャーちゃんを見ながら元気に飲んでいる。
本当はとても辛い頃だったと考えると切ない。
でも、厚洋さんの思い出なら何でも欲しい。
泣きながらでも探す真愛だ。


退職してからは、毎年、厚洋さんと出かけていた枇杷購入ドライブ。
去年も一昨年もひとりで行きました。
去年は厚洋さんは海の彼方か空の上か、真愛だけで行きました。
一昨年は、具合の悪くなった厚洋さんが「ごめん。車に長く乗ってるのは無理。トイレに困るんだ。」って言ってた。
辛い思い出の場所だけど、枇杷屋さんの奥さんが明子姉さんに似ていて
真愛の気持ちを解ってくれる人だった。
今年も大事な方に「枇杷を贈れる」幸せを感じながら出かけた。
今年は、昨年「海。暫く見てないわ。今度は誘って。」と言ってくれた教え子さんの母上と一緒に。
久々の高速運転
南無谷海岸で桜貝を探した。
厚洋さんに歌って上げた「桜貝の歌」を聞いて貰った。
母上手作りのお弁当を食べた。
拓を連れてお弁当を持って出かけた懐かしい日々も思い出した。
初夏の空と海と
台風でも倒れなかった枇杷の木の実の思いだった。
。
帰って来たら、同居人のチャーちゃんは文句たらたら。
久々に家を空けたので怒っていた。
「ご飯の時間ですよ。もう、食べられないものはいらない。」

noteの運営委員から「お題」がでた。
ーopen the Class communicationー
真愛は、教職を辞すまで38年間学級通信を出し、33年間は毎日発行した。
厚洋さんの影響だった。
彼は「マンボウ」と題し、明治図書からムックも出している。
もう絶版かな?
学級通信を毎日発行できるのは、2人にとって自慢できる活動だった。
彼が学級通信「マンボウ」を書き始めたは、昭和51年。真愛と結婚した年と書いてあった。
真愛が学級通信「すずかけ」を書き始めたのは、50年なので影響されたのは厚洋さんだったのだと初めて知った。
真愛が毎日発行するようになったのは、彼のへライバル心?
いや。彼に褒めて貰いたかったのだと思う。
その頃から2人とも、年間発行分を一冊にまとめて冊子にした。
自家製本で子ども達に配った事もあった。
製本技術を2人で学んだのも「学級通信」をまとめるためだった。
お葬儀で、厚洋さんのコーナーを作ると決めた時。
まず並べたかったのは「教師として、常に子どもを思い、
『いかに生きる力を身に付けさせるか』
を語り続けた学級通信マンボウ=vだった。
ーopen the Class communicationー
彼の学級通信を開いてみた。
懐かしい。
彼の通信を読んでも、私の通信を読んでも、
厚洋さんどの思い出になってしまって切なくnoteが書けない状態が続いた。
私達の学級通信は、
・その日あった事を書き留めその事に対しての考え方を書いている。
・必ず「俳句・短歌・詩」を載せた。
季節や想いを感じる心を持たせたかった。
・子どもの素敵な行動や今、学習している事の指導について書いた。
・子どもの作文,日記、詩、などの紹介
・必要な連絡も
今は、そんな事は出来ない。
個人情報の保護・一律平等・学校批判の回避
学年統一・同一歩調
要するに、「良い意味での学級王国」も造ってはいけないのだ。
真愛も厚洋さんも良い時代に教員をやれていたと思う。
今だったら「ぶっ飛んでる教員」で1日ともたない。
厚洋さんも真愛も、よく結婚式や同窓会に呼んでもらえた。
また、厚洋さんが亡くなってからは、厚洋さんの教え子さんと真愛の教え子さんに助けられて生きて来た。
そして、彼等が必ず話してくれるのが、
「学級通信に書いてくれたよね。」
「毎日楽しみだったね。」
一年経つと、明日は、何を書いてくるかって 内容がわかったね。」
「嫌だねえ。性格が似ちゃうんだよね。」
「今でも、思うよ。先生の言ったことを思い出して、
(同じこと考えるようになった。)ってね。」
と言うことだ。
だから、彼が亡くなっても、教え子さんから「彼の言葉」を聞くことができた。
真愛の場合、学級通信は日記であり、エッセイであったと言える。
厚洋さんの場合、学級通信は「教育実践記録」であり「読むだけの生き方テキスト」だったのだ。
学級通信の思い出を綴る中で発見した。
note blogは、note学級と言うクラスの ーClass communicationー であると。

今年も勿忘草が咲いた。
おのろ生えと言うらしいが、10年以上も前から落ちた種が芽を出すのだ。
それを掘り上げ移植する。
ところが、今年はそこら中で花を咲かせた。
昨年の台風で土も移動し種も移動したからだろう。
「俺を忘れるなよ。お前の傍にずっといるから」って
厚洋さんの声が聞こえた。
彼の植えた「黄色のカタクリ」も元気よく咲き始めた。

厚洋さんは「カタクリ」が大好きで、群生地を探して宮城、栃木、群馬を訪ねた。
真愛の詩画集のカタクリの絵も褒めてくれた。
しかし、真愛は彼の買ってきてくれた鉢植えのカタクリを見て描いただけで
群生地に行ったことが無い。
昔、房総丘陵で迷子になった時見つけたのが「カタクリの群生地」だったと思うが
探しに行っても二度と見つけられなかった夢の花だ。
昨年、先輩から「ほらっ。いいだろう?カタクリの群生地だぞ。」って
今年は、先輩に教えて貰って行ったが
見つけられなかった。
ただ、厚洋さんに教えて貰った「二輪草の群生地を見つけた。
「いつも2人一緒だよ。」って
ちょっと頂いて「白い花」を描こうと思ったが、ひと茎で我慢した。
来年はカタクリも二輪草もしっかりその場で写生をして描きたい。

野博多唐露草。
台風15号でなぎ倒された杉の木を包み込むように
柔らかく可憐な白い花が群れなして咲いた。
厚洋さんと一緒に主題を話し合った「きつねの窓」
あのファンタジーの入り口のような
そこに足を踏み入れたら帰って来られない世界
今はもう会えない厚洋さんに会えるような白い花の世界だった。
倒れた杉を弔うように
「自分の心を信じて生きていけ」
って

十薬の花。
ドクダミ。
十字を切って願うのです。
あなたの痛みが安らぐように。
こんなにも沢山の願いに包まれたら
「だいじょうぶ。」「心配ないから。俺がお前を護から!」
厚洋さんの声が聞こえます。
今年も「サギソウが咲くかしら?」
そして、言ってくれるかしら?
「飛べ。お前の傍を飛んでやるから。」と。

>緊急事態宣言・外出自粛。
北海道の秀樹君から送られてきました。
伊達紋別岳にトレランウォークしてきました。
白根葵。
オロフレ山が有名だそうですが
こんなにも美しく咲いている
伊達紋別岳も凄いです。
雄大な北海道の初夏の花ですね。
感謝です。
テレワークとかリモートとかってのも
凄いね。世の中について行けなくなりそう